現在まで

 関東平野のはずれで、自宅近くの小川や雑木林を遊び場にして育ちました。最初は昆虫や魚に興味があったのですが、アマチュア無線の電信やアンテナの自作、CMOS回路工作などに入れ込み、中学の後半から岩石に興味の中心が移りました。 地元の高校時代には仲間と「地学同好会」を組織して、化石採集や地質見学に県北部を中心に毎月のように出かけていました。

 高校1年の秋に、日立地域の地質に興味を持って、電車とバスと徒歩、あるいは自宅から往復60kmの道のりを自転車で、休日ごとに地質調査のまねごとをしに通いました。 そのデータをもとに論文らしきものを書いたのが認められて、この道に進むことになりました。 高校2年以降には、久慈郡大子町から山方町にかけての第三紀層を観察したり、化石(植物など)を採集するため、水郡線に乗って休日に仲間とよく出かけていました。映画作りに凝っていたのもこの頃です。 家庭用ビデオが普及する時代に8ミリフィルムを使い続け、アナクロニズム・プロダクションと称していました。メンバーは地学同好会とかなり重なっていて、この仲間とは、放課後になると誰も使わないままだった地学室を占拠して、根城にしていましたし、映画以外にもマラソン大会に出たり、文化祭で即席のバンドを組んだり、岩手に化石採集に行って雪に埋もれたりといった、ろくでもないことはずいぶんやりました。 無線部の部長でありながら、地学の方にかかりっきりで手抜きをしていたのも申し訳なかったことです。高3の文化祭には、夏休み中をつぶして展示の準備にかかり、仲間の協力のおかげで良いものができました。

 大学受験に失敗し、自宅浪人の1年を水戸で過ごしました。平日は県立図書館に自転車で通って、午前は学習室で数学の問題を解き、昼は隣の県庁の土手で弁当を広げ、午後は書庫で地学の本を片端から読みあさっていました。15時になると、那珂川の土手のサイクリングロードを通ったり、寄り道しながら帰宅し、家でまた勉強と称して、友人に勧められたものなど、文庫本をむさぼるように読みました。河原の土手で眺めていた川面のさざなみや、田んぼが広がる平野の風景を思い出します。孤独でしたが、水戸や東京の予備校に通っていた友人たちに、精神的にずいぶん助けられました。

 大学の1・2年、教養(駒場)時代は地学実習や地学見学旅行に参加して、駒場祭で展示をしたり、3号館1階にあった昔の宇宙地球科学教室事務室に、しょっちゅう入り浸って迷惑をかけていました。地文研究会地質部というサークルでも活動。 各地の地質を見て回りました。濱田 隆士教授(現放送大学/神奈川県立生命の星・地球博物館館長)のゼミから発展した、生きている化石研究会に参加。イグアナやゾウガメの担当で調べものをしていました。 その縁で動物大百科・別巻「恐竜」の下訳や、「おおむかし大図鑑」の出版に参加しました。

 学部3年で地学科地質・鉱物コースに進学してからは、五月祭で本郷キャンパスの石材調べをしたり、秋田市の東隣、太平山山麓の河辺町で、進級論文調査中にクジラの肋骨を見つけて、町の人と組織発掘したことなどの思い出があり、懐かしく思い出されます。

 大学4年以降、地質学教室・岩石学(旧第一講座)に所属。指導教官は久城育夫、鳥海光弘、丸山茂徳の3氏につきました。初期地球史とテクトニクス(地殻進化・変遷)を中心に学びました。 1990年夏、グリーンランド・イスア及びゴッドホープフィヨルド地域の調査に参加。22億年前の高Mg岩脈の分析と内部組成変化の原因の考察。阿武隈山地・日立の変成岩の原岩とテクトニクス、国内各地の変成堆積岩の微量元素組成を用いた後背地変遷やテクトニクスの解析などを扱ってきました。

 97年春、大学院を退学。中高の非常勤講師などで生活の糧を得て、細々と研究を続けて現在に至ります。

 98年3月、濱田氏の推薦で箕輪氏に出会ったことで、NHKジュニアスペシャルの科学監修を任され、番組制作に関わることになりました。


戻る