日立の思い出


 日立鉱山には、僕はいろいろと思い入れがあります。関東平野の中(水戸の 東はずれ)で育った僕にとって、硬い岩石というのはあこがれでした。近所の 崖の露頭には第四紀の河川成のレキ層のくさりレキくらいしかありませんでした。 金属や元素に対する興味もあり、小学校あるいはそれ以前から落ちている砕石で 遊んでいました。最初は岩石だけに興味を持っていたのではなく、昆虫少年や お魚少年だったのですが…。

 小学校5年の夏休みに、当時まだ稼行していた日立鉱山に行きました。鉱山 の周囲の岩石はどんなものだろう、と興味があって、父の車で連れていっても らったのです。そのとき、鉱山の守衛さんに4kgもある、みごとな含銅硫化鉄鉱(黄鉱) をもらいました。うれしくて、ひと夏、その標本を眺め暮らし、硫化鉱物の 肉眼鑑定を身につけました。

 中2の頃から、またぞろマニアの虫が動き出して、日立鉱山のある、阿武隈 山地南端(多賀山地)を横断して、岩石のサンプリングをしました。それから ずっと、現在に至るまで、毎年何回かは日立の山に通い続けています。
 中3の秋に日立鉱山は閉山し、本山の集落はどんどん寂れていきました。一 方で、新しい動きもあり、高校に入った年の冬、大雄院の小学校跡地の裏山の 崖で化石採集をしていると、ごおん、ごおんと遠くで轟音が聞こえていました。 それがいまの常磐道の工事で発破をかける音でした。準平原を刻む谷には虚空 を駈ける巨大な陸橋がつぎつぎと造られていき、工事用道路には砕石やセメン トを積んだダンプがひっきりなしに行き交っていました。路傍のガクアジサイ も土ぼこりで白くなっていました。
 日立の山を越えた反対側、常陸太田市の方は自転車で通っていたのですが、 こちらはのんびりしたもので、国道349号のバイパス工事などはありましたが、 ちょっと山にはいると、100年変わりそうにない田園風景でした。夕方の日差し を浴びて山道を降りてくると、眼下にもう夢のような穏やかな景色が広がって いたのを思い出します。
 いまもそんなに変わっていませんが、自転車を押して登った峠にゴルフ場が できたり、調査の終点でいつもお弁当を食べていた尾根が整地されて、ハング グライダー場ができたり、多少寂しい思いもあります。

 化石採集をした小学校の跡地にあった石碑がいつのまにか移動したなあ、と 思ったら、まもなくそこに銅箔加工工場が建ち、化石採集もままならなくなり ました。(関東で唯一の、確実な前期石炭紀の化石産地なのですけどね。)
 日立鉱山に向かう途中の大雄院には、156mの大煙突がありました。 この日 立製錬所の大煙突は、大正3年につくられた、当時世界一の高さの鉄筋コンク リート煙突です。硫化鉱を製錬する際には亜硫酸ガスがでるのですが、脱硫装 置のない当時はこの排煙が非常に問題でした。農作物を枯らし、人々には喘息 が蔓延し、鉱山の周囲の植生は破壊され、山林は山火事で焼けました。 地元の人々との交渉、科学的な検討のなかで生まれたのが、この大煙突です。 日本で初めての組織的な高層気象観測を実施し、あるいは有人の気象観測所を 各所に配置し、電話網で排煙量をコントロールする一方、データを蓄積し、そ の裏付けをもって、会社が巨費を投じてつくった、記念碑的な煙突です。これ により劇的に煙害が減少し、離村を考えた周辺住民もようやく安堵したという ことです。

 一方で煙害の生物におよぼす影響の研究や、煙害に強い作物、植物の研究も 行われました。それは、日鉱記念館の別棟の中に少し展示があります。

 この間の事情は新田次郎の小説「ある町の高い煙突」(文春文庫112-15)の 題材となって広く知られるようになり、企業都市日立の象徴として、ながく愛 着の対象になっていました。

 高3の遠足は、クラス単位で行き先を決めるのですが、あのトンネル手前の 登山口から神峰山に登り、そのまま尾根伝いに鞍掛山・神峰公園に降りてくる というルートでした。神峰山には気象観測所の跡?があり、またルートの途中 で大煙突の根元に寄ると、落下したコンクリート片が散乱していて、見上げる と煙突の途中に開いた穴から青空が見えて、とてもこわかった記憶があります。 山々には、煙害で枯れた植生回復のために植樹した、大島桜が咲いていました。
 その大煙突は、93年に倒壊しましたが、現在でも残った50mほどの基部だけで 運転しています。

 初めて鉱山に行ったときから、もう20年になります。鉱山をめぐる 風景の移り変わりには、いろいろ感慨があります。

 変成岩地域で地質学の勉強を始めたので、最初はめちゃくちゃ難しかったの です。層序とか、地質構造とか、そもそも褶曲と断層だらけの変成帯では無理 があるのです。それでもしつこくやっていて、得るものはありました。 おおざっぱに地質を見ること、テクトニクス、地殻の進化の問題、大陸の地質、 先カンブリア代。
 日立に限らないのですが、阿武隈の地質は難しくて、昔から阿武隈をやった 地質屋さんは発散していく傾向があります。もっとも有名なのは、都城秋穂氏 ですが。


おいたち

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