台地と低地 …谷津の成因


 茨城の久慈川から南の地域では、台地と低地の地形が広く見られます。 これらは第四紀の最終氷期の前後に形成された、最も新しい地形です。
 台地は基本的には最終氷期の前の、リスーウルム間氷期の海面上昇期(下末吉海進) に形成された地形です。氷期に河川がその台地の一部を削り込んで深い谷をつくり、 氷期終了後の海面上昇(縄文海進)でその谷に海が進入し、土砂で埋め立てられて低地ができました。

 氷期に侵食が進行するのは、次のようなしくみです。

1)氷期には、大陸氷床の発達のために、海の水が減って、水位低下が起こる。
2)海岸線が沖の方に移動(海退)、それまでの陸地の標高も相対的に高くなる。
3)河川の傾斜が急になり、侵食が激しくなる。
4)河川の道筋に沿って深い谷が削られる。

 氷期に刻み込んだ深い谷に、間氷期、特に約6000年前をピークとする縄文海進 の時期に、海面が上昇し、海が進入して、その後埋積が進行しました。

 霞ヶ浦などは、その時期の海の名残だといわれています。谷の出口を古鬼怒川 の自然堤防がふさいでしまい、上流からの土砂の堆積が追いつかず、湖として残 ったものだということです。

 どの時点で幅が広くなったかはちょっと僕はわからないのですが、 氷期の時点でかなり広い谷を形成していたのかもしれませんし、 海進から海退に至る時期の海岸侵食や、谷の埋め立てそのものに使われたかもしれません。

(それは、縄文期の海岸線を示す貝塚の分布から見えてこないかと考えています。 ←海域の変遷=埋め立ての進行を、貝塚の分布とそこで産する貝の種類で調べた研究がなされています。)


 2000.1.1 萩谷 宏(【理科の部屋】発言#52987を改変−改訂中)

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