霞ヶ浦の成因に関する一考察

 2002.8.12 2004.11.15追記


 霞ヶ浦の周辺に多い、蓮田がつくられる、泥深い低湿地というのは、地 質の上では氷期に河川が削り込んだ谷を、縄文海進時に海水が入り、その 後の海退にかけて、上流からの土砂で埋め立てられてできた地形であると 考えられます。

 霞ヶ浦にしても、縄文海進時の海が、出口をふさがれて残った形での、 海跡湖である、という説明を古い事典で読みました。だいぶ前の話ですが、 成因としてはそんなに話が変わっているわけではないと思います。要する に、埋め立てできずに残った部分が霞ヶ浦や北浦で、いまも少しずつ埋め 立てられているのだと。

 ただ、この話、僕にはどうも納得がいかなかったのです。つまり、出口 を(鬼怒川や)利根川の運んだ土砂でふさがれると、なぜ湖が残るのか。 それは確かに出口をふさがれることで、流れがなくなり、砕屑物の運搬が 行われにくくなるかも知れない。けれど、上流からの砕屑物の供給が充分 にあれば、どっちにしろ埋め立てられるはずで、なぜ現時点まで湖が残ら ねばならなかったのか、という説明にはならない。

 ここ数日考えていたのですが、これは、土砂(砕屑粒子)の供給の少 なさこそが、その本質ではないかと思うのです。この地域の近傍には、筑 波山をはじめ、八溝山地から延びる中・古生層の山地があるのですが、そ こからの土砂を有効に運ぶ河川系がなく、砕屑物は山麓にたまるか、山地 に近い盆地を埋めるだけでとどまっているように見えます。
 一方、鬼怒川や利根川は、関東山地や足尾山地、火山などを上流域にも ち、それらからの砕屑物の供給がかなりあるのではないかと思います。そ れが氷期終了・縄文海進以降、流路に当たる低地を埋めていると考えられ ます。

 そうしてみると、なぜ霞ヶ浦がそこに埋め立てられずに残ったのか、と いう問題は、大きな河川の流路が、現在の利根川のラインに限定されてい たところに原因があるように思えます。それは何が原因か。地形をもう一 度確認しないといけませんが、もしかすると、鹿島台地の隆起などが原因 で、河川の流路を南側に制限していたことがあるのではないか、などと考 えています。また、関東平野の第四紀層基底の深度を調べると、現在の利 根川の流路に近いところで最大になっているわけで、これが河川の流路を 決めている要因であることも考えられます。

 古地理の復元図を見ると、下末吉海進前後などに、古東京湾は、東に向 かって開いていた時期もあるわけで、その意味でも有効な埋め立て屋であ る大きな河川の活躍がなければ、なかなか埋め立てにくかろう、とも思い ます。

 ただ、これは僕の中でも仮説の段階で、周辺の下末吉海進の段丘面の、 上面高度分布などを検討してみないといけないと思っています。きちんと 第四紀関係の文献も探さないといけません。どうせ誰かやっているでしょ うから。ゆっくり研究できる身分になったら、やってみたいことのひとつ です。

 それで、最初に戻ると、なぜ霞ヶ浦周辺に蓮田が多いのか、泥深い低湿 地が多いのか、という問いに対して、僕は、縄文海進以後、その地域の河 川の上流域からは、ローム層を起源とする泥くらいしか供給されなかった からだ、という説明を考えているわけです。同様に、しょぼい川しか流れ ていなくて、埋め立てきれずにいるから、霞ヶ浦も残っているのだ、と。

 2002.8.12 萩谷 宏(nifty fkyoikus mes7 【理科の部屋2】発言#2729から、一部改変。)

追記:

 氷期には、鬼怒川の流路が現在の方向ではなく桜川の方向で、その強力 な侵食力で霞ヶ浦の地形的なへこみを削り、完新世に入った前後に、鬼怒 川(あるいは小貝川)の流路が南側の現在の流路(利根川)に移った、と いう可能性があるのではないだろうか。

霞ヶ浦周辺の地形(10m等高線)…国土地理院の50mメッシュ数値地図データをカシミール3Dで表現。

桜川上流部と小貝川、鬼怒川の流路の接する部分拡大。等高線は1m。データは上と同じ



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